悟りと感情について。
ブログにつらつらと自分の思いを書き始めてから、心境に変化はあった。気持ちを外に明文化して吐き出すことは、心の整理に有用なのかもしれない。
考えは更新されている。この1年ほど、同じような気持ちから変化せずにいたため、更新できたということは素晴らしいことである。
私が望んでいることは叶わないと悟ってから、苦しみは軽減した。
案外、『悟り』というものは、人間が苦しみを緩和させるためのツールなのかもしれない。以下の記事が参照である。
私は論理的なものに依存した方が、楽に生きられる可能性が上がるとも理解した。
ただ、何故か虚しさを感じた。
私は今までの人生の中で、悟ったな、と思う瞬間があった。同様に、苦しみの最中にいた時期であった。
私は悟ろうと思って悟ったわけではない。
苦しみの中悩むことで、考えが昇華され、そのような状態になったに過ぎない。元から、悟りたいわけではなかった。悟りを重ねたいとも思っていない。
徳が高い人間になろうだなんて、恐れ多いことを望んでいない。
悟って、ぼんやりとした感情、感覚の中に生きたいと願っていない。元から、私は感情、感覚は乏しい。
ただ、私は、人間らしく生きたいと願っただけなのだ。
鮮烈なプラスの感情を感じたい。人並みに、楽しいと思ってみたい。幸せに日々を過ごしたい。
しかし、それは叶わないだろう。
苦しみの中から昇華した私は、きっと、薄ぼんやりとした達観した感情の中に生きるだろう。
それは、今までの人生と同じだ。
やはり、私が求めているものは手に入らないらしい。結局、考えは元の地点に戻ってきてしまった。
鮮烈な楽しさは、私の手には届かないものらしい。鮮烈な苦しみは身近にあるのに。