私は楽に幸せに生きることはできない。
前の記事で、私が人生に求めるものを考えてみた。
自問自答した結果、私が人生に求めるものを以下に列記する。
- 楽さ
- 楽しさ
- 幸せ
私はこれらを手に入れることはできるだろうか?
楽さ
『楽に生きたい』というのは、人間で普遍的に感じる事柄なのではないかと思う。
私が楽に生きるためには、今の生き辛さを取り払わなくてはいけない。それには労力が必要になる。
つまり、現状から楽に生きることはできない。
将来的に楽に生きるための投資をすることはできるだろうが、私の弱い能力に投資をすることの虚しさ、コスパの悪さは、身に染みている。
楽しさ
案外私は多趣味である。手芸全般、フラ、あと、何かやろうとしたら大抵の定型的なことは情報を参照したらできる。
それらは、まあ、それなりには楽しい。それなりには。
ただ、人生で少しだけ存在した、『気が合う人と遊ぶ』楽しさには敵うべくもない。人間に依存した楽しさが最も強いのだ。残念ながら。
一度それを体験してしまったばかりに、自分で生産する楽しさは大したものではなくなってしまった。
自己生産できるより強い楽しさを模索するためには、労力が必要だ。
もっとも、今まで生きてきて、それが生産できなかった時点で、その労力もコスパが悪いものになることは目に見えている。
幸せ
人間は、主観的に『幸せだ』と思えたら幸福になれる。感覚的な定義はリスクが高い。
一方で、完璧に『幸せだ』と思う状態は、それで満足してしまい、脳が鈍る。
おそらく、恒常的に幸せを維持できるのは、とても徳の高い人にしかできない。私は徳が低い人間だから、絶対に無理なのだ。
だから、それは目指すべきものではない。
まとめ
私が自然に願ってきたことは、全て叶わないことだと分かった。だから、現実との乖離によるコンプレックスは定めだったのだ。
感覚的なもの以外に評価手段を定めないと、人生はリスクが高い。
私が求めていたものは幻想だったのだ。
「楽しさ」「楽さ」「幸せ」を、きっと私は手に入れられると思っていたから、私は消耗したのである。恒久的な幸せなど存在しないのに。
今までの私の人生は、得ることができないものを得ようとしていた。そして、精神的に崩れて中身は何も詰まっていない。一体、何をしていたのだろうか。
感覚的でない、人間に依存しない何かを見据え、生きていかないといけない。感覚はあくまで感覚であって、それは絶対的なものではない。感覚に依存するのはリスクが高い。そうしないと、生きてはいらない。
私の人生はどうしても苦痛の割合が多くなるから、感覚を軽視しないと、重すぎる。
昔は、苦痛から逃れるため、感覚を完全に凍らせていた。その時の感覚に近づければ、楽にはなる。結局、私は元に戻るのだ。
中高時代のストレス対応は素晴らしかった。ある程度戻れば、今の状態からは楽になる。
私は身体の奴隷である。身体は勝手に毎朝起き、心臓を動かす。
会社や学校では、何事も、実施するまえに目標を設定する。しかし、大元の「生きる」ことに対し、目標設定が行われていなかった。
適切な目標設定ができていなかったら、苦しみを生むのは目に見えているのに。
私は幸せに生きないだろう。
でも、幸せに生きることが、人間として最適でもなかろう。それは個々人による。
何か、私は見つけなければいけない。
- 感覚的でない
- 人間に依存しない
以上の2点を満たす、『何か』を見つけないと、生きてはいられない。
私が感じる人生上の苦痛は、きっと霧散することはない。それは許容するしかないのだ。
それから目を逸らす『何か』が、絶対に必要だ。