私が人生に求めるものは何なのか。
今まで、疑問を抱かず、以下のように考えていた。
- 生きるなら楽しみたい。
- 楽しく生きることが人生の目標。
これが全ての元凶ではないのか、と不意に思い至った。
「楽しさ」は主観的かつ感覚的である。定義が難しい。私がそう思ったら、それは間違いなく「楽しさ」なのだ。
しかし、私は楽しさを感じることが難しい脳をしている。「楽しい」と思うことを実行する能力、感情が乏しい。
では、前提条件を変更すれば良いのではないか。
人生にプラスを求めない。
私が人生にプラスを求めていて、それと実際との差にコンプレックスを抱いているのならば、理想を下げれば良い。
私は所詮人間である。欲、期待、希望を、下げることができれば、コンプレックスによる苦しみは軽減するのではないか。
しかし、欲というものに、意志を介入できるのだろうか。期待、希望を、自然に感じるものから変更させることができるのだろうか。
変更させたとして、それは私の「幸せ」になるのだろうか。
疑問点が多い。ただ、少しでも人生の苦痛が軽減できるのならば、試してみる価値はあるのかもしれない。
それに、感覚的なもののみに人生の是非を委ねることは、リスクが高くて推奨されるべきものではなかろう。
高望みしない。身の程を知る。
これらが実行できれば、多くの人間はきっと幸せになれる。
ただし、人間の欲と言うものがそれを実行するのを阻害している。私だってそうだ。欲を持っていて、欲を叶えても叶えても、永遠にそのサイクルが続くだけなのに。常に「足りない」状態になるだけなのに。
欲をコントロールできれば、多くの人間は幸せになれるのだろう。
多分、それができるようになるためには、人間的な修練が必要になる気がする。普通の人間には難しいことである。
少なくとも、今の感覚的な人生の捉え方は止めた方が良いことは、確かだ。
何か、もっと、しっかりとした価値あることを、私の中心に置く必要がある。
「楽しさ」ではなく「快」を得ることを人生の目的としたら、難易度は下がる。睡眠、食欲でそれらを補うことはできる。
ただ、今の私が感じている孤独感、虚脱感、疲労感は、どうしたら良いのだろう。
それらを解消するためには、今まで私が求めていたものを補充する必要があるのだろうか。
私が人生に求めることをクリアにすれば、私の中のもやもやとした感覚もクリアになるのかもしれない。
私は何故生きるか。何を求めているのか。どうしたいのか。
生きることは、選択したわけではない。心臓が勝手に動き、自律神経は勝手に働く。毎朝、勝手に目覚める。だから、あまり深く考えたことがなかった。
明確なビジョンを持つことで、シンプルに、クリアに生きることができれば、私はより楽になれるのかもしれない。
と書いている時点で、私の本質は「楽になりたい」「幸せになりたい」だけなのではないかと思う。
ただ、それだけではいけない。プラスアルファで何か、私の中で強く価値のあることを持っていることで、人生のリスクを減らすことができるかもしれない。
ふわふわと「楽になりたい」と思って生きているだけでは、きっと、何も私の人生は変わらない。
それは分かる。