多様性に目をつぶる日本社会と私について
以下の記事で、学生時代の私の引け目について記載した。
学生時代の私は、学校で得ていた感覚が全てだった。学校=社会だったのだ。
今思えば、学校という場所は特殊である。同世代ばかりが集まる、組織としての目的のない、狭い世界だ。
しかし、学生であった私は、そんなことに気付く余地もなかった。それは仕方がない。学校にしか所属したことがなかったのだから。
きっと、今の日本の学生の多くもそのような感覚を得ているだろう。
学校が全てなのだ。
つまり、学校がうまくいかなければ、人生もうまくいかないと思ってしまう。
学校で生き辛かったら、これからの人生も生きづらいと思ってしまう。
そして、そのような辛さ、苦しい思いは、少なくとも私はなかなか昇華できない。学生時代にずっと毎日のように浴びてきたストレスは、忘れることはできないし、納得もできない。
同世代と上手に関わることのできる人間にとって、学校は天国だろう。
しかし、逆だったら、学校は地獄となる。
そして、浴びたストレスは、それからの人生において障壁となるだろう。
私は、学校より会社の方がかなり楽だ。これは、世の中から見たら少数派であろう。しかし、私にとってこれが真実なのだ。
もっとも、私の感覚は大多数と迎合することは少ないため、珍しいわけではない。
夢で、高校生の時の自分に戻っていて、「学校に行きたくない行きたくない」と思っていることがある。しかし、朝目が覚めると、行くべき場所は会社だと思いだし、「よし行こう」となるのだ。
学校など二度と戻りたくない。まあ、学業をただ目的とする大学は別だが。
苦労やつらさは「ある程度」必要である、というのは間違いではないとは思う。たまには、自分の許容量を少し超えるタスクをこなし、自分の限界を見極めるのは、生きていく上で必要である。
しかし、許容量を大きく超えるタスクを課せられ、大きな苦労やつらさを覚えることは、許容されるべきではない。それは意味のない苦労やつらさとなる。そのような思いは、心身に害しか及ばさない。
そういう意味で、私は苦労を賞賛する社会が、大嫌いだ。
私自身、許容量を超える辛さを抱え、心身のバランスを崩したことは、何度もある。それを経験すると、そのようなことは決して許容できない。
また、自分のつらい思いを他人に渡すリスクも高まる。虐待された子供は大人になって、自分の子供を虐待しやすいという。
友達が多い人間がスクールカーストの最上位で、ひとりぼっちはスクールカースト最下位である。
私は、なんとなく上記のように感じていた。
社交性、協調、同調、共感、連帯責任、団体意識。
以上が、日本の学校教育が重要視している事柄に思う。
同世代と仲良くなりにくく、上記の項目要素がない私は、世の中に求められていることができないと、完全に自信を失った。
しかし、就職してからは、同世代と仲良くなりにくいことはそんなに大切なことだったのだろうか、と疑問を抱く。
人と協調する前に、自分ですべきことを実施できる能力を磨くべきではないだろうか?
私は学校教育は「みんな同じこと」を押し付けているように感じた。みんな同じ髪の色、みんな同じ服装、みんな仲良く……なんて馬鹿らしい! それに何の意味があるのだろうか?
(ちなみに、高校時代、私の髪色は生まれつき赤茶なのだが、「染めている」と怒られたことがあり、憤慨した)
人間はみんな同じではない。多様性があるこそ、社会は存続・発展するのだ。その多様性に目をつぶり、気が合わない人間と仲良くすることを強要し、挙句の果てに「違う」人間を排除することは、なんという愚行だろうか。
多様性を排除することは、この社会全体の人間が何かしら排除されることに怯えることになる。
自分の感覚と異なる人間を「許容」し、私感情を抜きに、相手を尊敬して冷静に話し合うこと。
これこそが、生きやすい世の中を形成するために必要なことではないかと思う。
私は、世の中の多くの人間と感覚が違う。そのため、常に、理解できない人間を許容せなばならなかった。それが常であるため、内心やさぐれることも多々あるが、基本的に他人に攻撃はしないことを信条としている。
きっと、この社会に懐疑的にならずに生きてこられた幸運な人間は、そのようなことを思わないのだろう、と思う。
そして、そのような幸運な人間が世の中で多くの位置を占めているため、きっと日本は変わらない。そのような人の何が悪いわけでもなのだが。
少なくとも、私はそれに絶望する。
学校が楽しかった人間が教師になるだろう。教師は、私たちのような少数派の人間を、真摯に受け止めてくれるのだろうか。
私は、「世の中が求めているものを保持していない」ことによる引け目、自信のなさを、解消していいと思っている。
そもそも、世の中が求めているものは、意味不明のものだからである。