社会不適合者の生きる方法

発達障害傾向の孤独な喪女(26)が考えた、「私が」楽に生きる方法など雑記 【発達障害/パニック障害/場面緘黙/プチプラコスメ】

【発達障害】学校と会社の人間との関わり方の違いと、これからの私について

今まで友達がいないことに引け目を感じて生きてきたが、今になってようやく、私は同世代女性と馴染まない性質をしていることをはっきりと自覚し、引け目を感じる必要はないのだと確信した。

逆に、共感が少ないと思われる世代が異なる人間との関わりの方が楽であり、仕事上でそれはマイナスではない。

 

論理的な人間と、最も話がしやすいように思う。それは、女性男性関係ないが、比較的男性の方が論理的な人が多いように感じるため、私は論理的な男性を一番得意とするのだろうか。

 

実際、会社の論理的な上司との関係は良好であるように感じる。話がしやすいのだ。

とすれば、女子中高に所属していたのは、間違った選択だったのだろう。どうりで、友人ができないはずである。

大学になったら男性との関わりはあったものの、完全に私が男性を舐め切っていた。学業を疎かにする男性は好まない。

 

「若い女性ならこういう感覚があるべきだ」という、世の中の雰囲気に、ずっと悩まされていたように思う。

若い女性の共感を私は理解できない。むしろ、彼女らこそ、私は理解できない恐ろしい存在なのだ。逆に、上司や、年上の同僚との方が、感覚が近くて話しやすい。

私が理解できない感覚の雑談を目の前で繰り広げられると、恐怖すら感じる。そして、「私はそういう感覚は抱けない」という引け目を強く感じ、辛かった。いや、今も、現在進行形で、辛い。

 

だから、私は、同世代が集まる学校の中で、ずっと萎縮して生きてきた。

「同世代に馴染まなきゃ。でも理解できない」という思いだった。そして、人間が怖かった。

 

会社に所属してから、対人が楽になった。

会社は、世代が異なる様々な背景を持つ人間が集まる。その中で「共感」は重要なものではなかった。

自分の思い、考えを論理的に発露すれば、それを受け止めてくれた。同世代が集まるお昼休みは別だが、それ以外は、大変対人が楽になった。

 

そして、今まで、学校という同世代ばかりが集まる異様な空間で抱いていた人間への感覚は、一般的ではないことを学んだ。

同世代と友達になること。こればかり意識して生きていた。

しかし、それは、結局のところ、大切なことではなかった。

 

生きていく上で、問題なく人間と関わることができることが、最も大切なのだ。相手の人間が友達だろうがそうでなかろうが、それは全く関係ない。

そして、人間とは一定の距離を保つことも必要である。そして、人間に過度な期待を抱かない方が良い。

 

他人は他人で自分は自分である。

これを真の意味で理解できれば、私はきっと楽になれるだろう。

 

同世代ばかり集まる場所以外では、私も、自分を発露してみようと思う。そこでは私はきっと明さまに迫害されることはなかろう。

私が素で振る舞っている会社の先輩からは、「おもしろい」と言われる。

私は、普通ではない。変わっている。その様が面白いと思われるのなら、それはそれで、良いことなのだろう。

 

私は素で振る舞っても良いのかもしれない。

悪かったのは、学校と言う、同世代ばかり集まる集団だったのだ。