私が生きることに疲れた原因について。
ここ1年、私はずっとつかれたつかれたと連呼している。
原因は、他人の中に、「やっと私は世の中に認められた」「今まで頑張ってきたことが認められた」のだと思っていたため、その他人が姿を消すと、それらの肯定感が霧散したためである。
今まで頑張ってきたこと
- 人間と話せるようになった。
小学生時代、比較的親しい人以外とは話すことができなかった。中高時代も、先生に話す時、ファーストフードで注文する時も、胸がドキドキして恐ろしくストレスであった。
今は、会社で電話応対も可能であるし、多少の飲み会の雑談も可能になった。服屋や化粧品の売り場の女性は、今でも苦手であるが……。
- 理解不能な人種に対する寛容と、自己抑制を続けてきた。
若い女性は理解不能であるが、観察により、傾向を掴むことができた。そのため、無駄なことは言わないようにしている。
つまり、私は、自分の思いを口に出して人間と関わってこなかった。そもそも、私の言うことは、家族にさえ否定されるのではあるが。
会社のお昼時間に、些細なことで不満を述べる同期を見ると、少し苛々としてしまう。私は、嫌なことがあっても、それを口に出すと肯定されることはあるまい。
世の中は不平等なのだ。
- 孤独に耐えてきた。
前回の記事に記載の通り、人生上、本当に本音を話せる人間がいなかった。人と群れることもなかった。
今でも、楽しそうに街を歩いている人を見ると嫉妬にかられることはある。
ただ、私は、多くの人が楽しむことを楽しめず、多くの人が辛いと思うことを辛く思わないことが多いため、やはり他人との関係の形成は望まない方が良い。
◆前回の記事
- 上記のように、良いことがなかったのに、やるべきことは続けてきた。
成績はその学校の中ではトップだった。しかし、学校のレベルは中途半端である。マイナスはプラスを上回らず、生きるほどに負債がつのるのを感じる。
- 世の中に適合していないものの、なんとか就職できた。
パニック障害という代償は払ったが、自分の力でなんとか就職し、今も働き続けている。
自己肯定感を他人を介して培ったのが、間違いであったのだ。
世の中は不平等であると、心の底から確信している。
私の感覚は、多くの人に否定される。感覚の発露に気を付けなければならない。
一方、お昼を一緒に食べる会社の同期たちは、些細なことで「不平等」だの「不満」だのなんだのと言え、それを周りの人に共感してもらえるのだ。認められるのだ。
私の言うことは、母にすら変だと罵られる。
他人との共感、他人に認められることに、価値を置かなければ良いのだろう。そうすると、絶対に孤独になる。
孤独であることは悪いことではない。
ただ、私は、誰か1人にでも、私の存在を全肯定してもらえたら、それで良いと思っているのだ。その機会が巡ってきたら、私は幸福感に包まれるだろう。
そして、その「1人」が私から立ち去ると、私はまた疲れるのだろう。結局、同じことの繰り返しになる。なんと虚しいことだろうか。
他人に依存する虚しい思考から、早く解き放たれたい。
人間は嫌いだ。