社会不適合者の生きる方法

発達障害傾向の孤独な喪女(26)が考えた、「私が」楽に生きる方法など雑記 【発達障害/パニック障害/場面緘黙/プチプラコスメ】

【発達障害】人間集団に馴染まなかった人間の昔話

私の自我の目覚めは、小学校高学年である。恐らく、平均より遅い。

 

それまでは、学校の休み時間は1人で中庭をうろうろし、好きなうんていをして、砂場の淵を歩いて、一輪車をして、寂しさというものを全く感じなかったことを覚えている。

そして、きっと、それが私の本来の姿である。

 

私は優等生だったし、それから学生であることを終えるまで、ずっと優等生であり続けた。勉強、特に理数系は、平均よりできたのだ。偏差値60くらいの学校では、他の教科も、平均以上にはできた。

これは生まれつきの資質であり、誇ることでも何もない。

 

ただ、私は問題をずっと抱えていた。学校の先生というものは、「勉強ができる」と何も言わないものなのだな、と心の中で冷笑していたのを覚えている。

私は人間に馴染まなかった。

公立の小学生時代も周りに決して馴染んでいなかったが、私立中学に進学先を決めていたため、「ここに馴染まないが、進学したらそうでもないのかも」と思っていた。

 

しかし、それは間違いだったのだ。

 

私立中高時代が、一番人間に馴染まなかった。クラスに1人はいる、ぼっちである。6年間の内、クラスに友達がいた時は、半分もなかった。

学生生活で、孤独だということは、かなり致命的である。集団行動が基本の日本の学校で常に1人であることに対し、引け目と今では考えられないほどのストレスを、毎日頭の先から足の先まで被っていた。

 

結果、私の心には大きな壁ができ、感情の起伏はなくなり、マイナスの感情の中をずっとたゆたうことになった。人間とも、1週間に1度喋るかどうか、何も喋らずに帰宅することなど日常茶飯事だった。

私は中高と全く合わなかったのだ。

 

大学からは、友達かどうかは分からないが、まあ喋る人もできたし、大学では単独行動していても全く問題なかったため、それまでの人生と比較し、随分と気楽に生きることができた。

研究室の先生にも「もっと自己発揮をしたら」と言われ、研究室でも自分の得意な能力を伸ばすことができ、人との関わりも少しずつ学ぶことができた。

 

その結果、就労でき、今は上司に対しにこやかに話すこともできている。大学には大変感謝している。

ただ、中高時代の名残の、人間に対する引け目はまだまだ残っている状態だ。

 

心理的孤独は今も感じる。会社のお昼でも、私は若い女性の間に決して馴染まない。

「人と遊ぶ」ことを、本当に楽しいと思ったことは、ほとんどないと言っても良い。「友達と遊ぶ」ことを、わざわざ余暇でしようと思わない期間がほとんどであった。私は人でなしである。何故、人間は、そこまで他人と遊びたいのか、理解できなかった。

きっと、それが私の本来の姿である。

 

人間の集団を目の前にすると、私は、孤独しか感じない。「私は彼らと違う」としか感じない。特に、若い世代の集団に対して、私は決してポジティブになれないのだ。

きっと、孤独は一生消えない。孤独は常に側にあるのだ。

会社では、幅広い世代の人間がいるため、今の生活のストレスは低いのだろう。そして、強い能力を発揮できてかつ評価されているため、なんとなく居場所があるように感じ、さらにストレスは減っている。

 

私は、注視すべき事柄を変えるべきなのだろう。

人間との「共感」があまりない人生であった。これからも、これを期待しても仕方がない。

人間よりも自分の在り様に、強い能力に、意識を向けていこう。