社会不適合者の生きる方法

発達障害傾向の孤独な喪女(26)が考えた、「私が」楽に生きる方法など雑記 【発達障害/パニック障害/場面緘黙/プチプラコスメ】

【発達障害】少数派として生きることと、多数派への嫉妬について。

物心ついてから、私は「他人と何かが決定的に違う」と思い続けてきた。それは今でも同様だが、昔よりかはそれを具体的に捉えることができるようになっている。

 

他人を見ていると、「多数派で生きてきたのだろうな」「自分の思いを疑わずに生きてきたのだろうな」と感じ、嫉妬に駆られることが多い。まあ、このような嫉妬は私が勝手に抱いているものである。

何もその人が悪いわけではないことは理解している。ただ、ただ、そう思ってしまうのだ。

 

少数派で生きるということは、ゲームをハードモードにするようなことなのだ。

 

感覚を肯定されない。

私は母から「お前がおかしい」と言われて生きてきた。私から見ると、母や他の人間の多くが理解できず、おかしい。

だが、人生経験上、私はこの世の中で少数派の意見を持っているということは、理解できた。人間社会の中で「数」というものは絶対的である。

日本は民主主義国家である。数で全てが決定される。

 

だから、それで母を批判したりはしない。ただ、感覚を肯定されないことから形成された、自己肯定感のなさは、私に悪い影響を与え続けている。

私は周りとは異なるため、何をするにも、自己発揮から行ってはいけない。周りを観察、判断し、適切な行動を取らなくてはならない。

それはあまり楽しい人生ではないし、そのせいかは分からないが、最近は人生に虚しさを覚える。

 

周りの人に嫉妬してしまう。

周りの同期を見ていると、「よくもそんなことで文句が言えるな」と思うことが多々ある。彼女たちは、働くのが苦痛らしい。一方、私は、働くことは今までの人生の中で一番楽である。私は幸せに見える。

ただ、視点を変えると、彼女たちは今までの人生で「楽しい」と思える経験を数多くしてきたから、今の労働が苦痛に思うのかもしれない。

私は、それを得ていない。決して得ていない。

 

嫉妬してしまうのだ。私は、周りの人と共感を得辛い性質を持っている。そのために、私は試行錯誤と悟りの人生を選んでしまっている。私の意思は反映されていない。私はそれを選んでいない。

 

感覚的に、些細なことで文句を言うことができる彼女たちが、羨ましくて仕方がない。私の前には、絶対的な壁がずっと立ちはだかっている。彼女たちは、そのような壁を見ることなく、感覚のまま生きることができ、感覚のまま世の中を楽しめているのだろうか。

そうだとすると、私は、とても羨ましい。そして、私自身がとても惨めになる。

 

私は、彼女たちの人生を理解していない。ただ、自傷するしかない痛みや、絶対的な孤独感、生きる虚しさを彼女たちは感じていないんだろうな、と見てて思う。

これは私の身勝手な感覚だ。しかし、ただ、ただ、羨ましいのだ。

 

彼女たちは、彼氏が欲しいだの結婚したいだのと言う。ただ、それをするための努力が見えない。努力をしていないのに望む。

彼女たちの資質は私よりも平均的だから、それを望み、適切な努力を払うことができれば、それは適うだろう。私がいくら努力しても得られなかったところに、容易く手が届くように見える。

それに苛立つのだ。

 

私は、生きるために試行錯誤し、疲れ果てた。精神的孤独はこれから先も解消される見込みはない。努力の方法ももう分からないし、努力が可能な精神状態ではない。もう私は何も手にしていないのだ。

平均的な人間が羨ましい。彼女たちは、人の目に見えない努力が課されていない。

 

私がもし自殺したら、きっと、その思惑と感覚は誰にも理解されないだろう。今さら、理解してもらいたいとも思わないが。無駄だからだ。

 

私にも、彼女たちより優れていると思われる能力は存在するし、それに着目して生きればいいのだろう。ただ、私が一番欲しかったものは、それではないのだ。

私が彼女たちより論理面で優れているのは「当然」である。そうでないと、私の存在意義はない。それ以外の能力が最底辺なのだから、それだけはできないといけない。

 

私の手には何も残っていないのだ。努力の方法もない。

努力して改善しようと思っていたことは、改善されることではなかった。脳の生まれつきの能力は、結局のところ、変わらないのだ。分析をして、努力をしてもしても、コストがかかるだけで、得られるものと釣り合わないのだ。

生き辛い。