続・何故私には友達ができないのか。
以下の以前の記事を書いた後、さらに気付くことがあったため、新しい記事を書いてみることにした。
私が上記の記事を書いた理由
- 悩みを人の目に触れる場所に明確に記載することで、自分の考えを「チラシの裏」レベルから昇華させる。
- 後から客観視することで、より冷静に分析する。
つまり、自分の身体の外に、意見を明文化したかったのだ。何かを変えたいと言う思いが強かった。
『人間との付き合いは諦める』とブログで断言してから、人との付き合いがとても楽になった。
「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」「まともに見えるようにしなきゃ」という思いが、私に強い圧力をかけ、ストレスを生んでいたのだろう。
昨日の飲み会でも、今までの人生の飲み会の中で、上位3位に入るのではないかと思うくらい雑談、発言ができたし、パニック症状の欠片も見えなかった。
やはり、私は、人間関係の構築は諦める。諦めていたくらいが、自由で、楽に生きられるのだ、ということをこの数日間で体感した。お昼の同期との食事においても、随分気が楽になった。
周りに人がいる、人がいない、ということは、それほど人間の価値に関係ないのだ。
私が同世代に気後れするのは、私が彼女たちの共感に入ることができないマイノリティで、マイノリティは迫害されやすい傾向にある、と思っているからである。
でも、今までの人生で常に迫害されていただろうか? いや、常には迫害されていない。
いじめられたこともあったが、限定的な人間のみであったし、一部の期間だけだった。
私は、私自身に自信を持ち、強くなって、彼女らと対等に渡り合おうとした方が、良いのだと感じた。
彼女たちも誰かを苛めるほど馬鹿ではないし、そうしようとは思っていないのは、確信している。決して悪い人間ではない。
ならば、私は、苛められっ子気質で気後れするのではなく、もう少し自己発揮し、前に進んでも良いのかもしれない。その方が、私も、黙って周りからどう見られるのかビクビクしているより、随分と気分が良い。
目下、仕事で自信を着けていきたいと思っている。
明日は、何故か自分より上の立場の人たち相手に、1.5時間ほど研修をしなければならない。とりあえず、これを無事に終わらせよう。
また、容姿においても、より研究を重ね、防御力を上げていこう。