社会不適合者の生きる方法

発達障害傾向の孤独な喪女(26)が考えた、「私が」楽に生きる方法など雑記 【発達障害/パニック障害/場面緘黙/プチプラコスメ】

私が自己肯定感を増すための方法を考えてみた。

私は論理作業は得意だが、それ以外の能力は最底辺だと感じている。

飲み会、人の間の立ち振る舞いなど、人の様子を見て模倣することはできることになってきたが、それに伴う苦痛はゼロにはならない。

かつ、なにせ、人とまともに交流ができない。大勢の人がいる場所だと、場面緘黙が発動する。

お恥ずかしいことに、「人と遊んで楽しい」「生きているのが楽しい」と思うことがほとんどないことが、私の憂鬱の原因なのだと思う。 

 

「生きているのが楽しい」と思うことができないのは、生きる上で、マイナスがプラスを上回っているからだろう。対人ストレスは耐えがたいものである。

幸いにも、事務・論理作業では人との交流は可能のため、就労でき、仕事は問題なく片付けている。

雑談、遊びのない貧しい人生は哀しいものではあるが、どうやったらその境地に至れるのか、私には分からないのだ。そのような点も、人間として大切なものを持っていない気がして、自己肯定感を下げることになる。

 

人間と関わろうとする試みを捨て去り、自分の得意な能力を伸ばすことが、私の憂鬱を吹き飛ばし、自己肯定感を増すために必要なことだろう。そうすれば、生きるマイナスは軽減され、プラスが相対的に上回ることも可能になるのではないか。

 

しかし、どこか心の奥で、人との関わりを望んでしまうのを感じる。それを捨て去ることができない限り、私は、いつまでも憂鬱に生きてくのだろう。

人間が自分のジレンマの原因であるのに、まだそれを求めるとは、人間とはかくも愚かなものである。

「人と良く関わろう」と思う意識を捨てない限り、私は私に圧力を加え続けるだろう。そういう欲を捨て去った方が、相対的に幸せになれるとは、理解しているのに。別に良く関わろうなんて、思わなきゃいいのに。

 

楽になれる方法は、いつだって存在する。早く人生を終わらせることだ。

いつだって存在すると思うことで、朝目が覚めて絶望したとしても、なんとか生きることができるようになるのだ。